カテゴリ:
今日紹介するボトルは、ブラックボトルのオールドボトル、1960-1970年代の流通品です。
このボトルはとある方々と開栓する予定となっており、今回は調べた内容の整理で書いた記事になります。


ブラックボトルは1879年にゴードングラハム社が立ち上げたブランド。最近のブラックボトルは、アイラ島で稼働中の7蒸留所をブレンドしたことがキャッチコピーとなっており、当時からそのブレンドであれば、このボトルには1960年代以前のアイラモルトがメインで使われている事になります。
が、このボトルを紹介するに当たってはまず、広く知られているブラックボトル=アイラモルト7種という誤解から解かねばならないようです。

最新の「ブレンデットウイスキー大全」から引用すると、
元々のブラックボトルはピーティーな味わいでアイランズモルトなども使っていたが、アイラモルトを中心としたブレンドではない。
1959年頃からブランド権所有社の移り変わりによりだいぶ味の変化があった。
・1995年、かつてのピーティーな味を再現するため、ブナハーブンをベースにアイラ7蒸留所をブレンド
(この7種類が、ブナハーブン、アードベッグ、ブルイックラディ、カリラ、ラフロイグ、ボウモア、ラガヴーリン。)
・2003年には再度所有社が変わり、ディーンストンやトバモリー、ハイランドモルトの比率が増えた。

ということで、ブラックボトルが明確にアイラ7蒸留所をキーとしていた時代は1995年から8年程度しか無く、それは当時の味を再現しようとした結果、構成原酒がアイラ寄りになったとのこと。
たしかに、1980年代流通のブラックボトルは
麦芽系の優しい味わいにピートも柔らかく、とても当時主張が強かったであろうアイラモルト( ボウモアとかボウモアとかボウモアとか) がメインで使われている感じではありません。ここ最近のリリースも飲みましたが、 同様にアイラというには首を傾げる構成。
大全の記述は体感的にも納得出来る内容です。

現在もそのキャッチコピーが店頭等で使われているのは、アイラモルトが人気だからでしょうか。
その結果、一時期のブレンドレシピの話がブラックボトルの魂であるかのごとく認知されているのは、正直違和感を感じます。


さて、ブラックボトル=アイラという話には自分なりに区切りがついたところで、閑話休題してボトルの紹介に戻ります。このボトルには特筆すべき裏ラベルが貼られており、むしろこっちの紹介が今回のメインでしょう。


「A Gift of The Earl of Strafford to Mr. Jiro Shirasu」
"ストラフォード伯爵からMr.白洲次郎への贈り物"

読んで字のごとく、イギリスの伯爵から日本人の白洲次郎氏に贈られたボトルです。なんというか"粋"なラベルですよね。
このラベルだけでわかる人もいらっしゃると思いますが、その経緯をこれからまとめていきます。
白洲次郎氏については、近年知名度が上がってきている人物であることもあって、ご存じの方も多いと思います。あまり長々と次郎氏の生涯をまとめても、私自身の知識がほぼネット経由である以上それはどこかのサイトの2番煎じにしかなりません。今回は氏のウイスキー絡みの話をまとめるにとどめますが、興味がある方は是非色々調べて見てください。


■白洲次郎(1902-1985)
時の首相、吉田茂氏の懐刀、サンフランシスコ日米講和条約締結の影の立役者。戦後日本における重要人物の一人。
GHQとの大立ち回りは"従順ならざる唯一の日本人"をはじめとした各種エピソードが残されており、その他にも通商産業省設立、東北電力繁栄、「
葬式無用、 戒名不用」等の多くの逸話が残されている。
また、一般人とは一線を画す金銭感覚、センスの持ち主で、身だしなみ等はまさにダンディズム。ヘンリー・プールで仕立てた服、靴もロンドンからのオーダーメイド、床屋は帝国ホテルとこだわり抜いたものであり、さらに人間性としては「スジを通す」という1点を徹底して貫いた生き様も「プリンシプル」という言葉に集約されている。一言で"男が惚れる男"。


白洲次郎氏は、戦後激動の日本において、GHQ、アメリカと渡り合い、そして近代日本の礎を築いた人物であり、日本の近代史における重要人物の1人であることは間違いありません。
そんな次郎氏は、イギリスへの留学経験からウイスキーを愛飲しています。
今回のボトルを紹介する上で、そのストーリーは重要なポイントです。

次郎氏は諸々の家庭事情から非常に裕福な環境にあり、さらに日本の学習環境に合わなかった事もあってイギリスに留学しました。
潤沢な資金により充実した日々を過ごしていた次郎氏が現地で出会ったのが、後の第7世ストラフォード伯爵であるロバート・セシル・ビング氏。彼とヨーロッパ中を旅した(費用は白洲氏がほとんど持ったとか)ことで、生涯の交友が生まれたそうです。

戦後、日本にはろくに洋酒がありませんでしたが、次郎氏だけは別でした。
それは上述の親友、ストラトフォード伯爵が、蒸留所から買い付けた原酒を独自に熟成させ、頃合いを見て日本の次郎氏の元に贈ってきていたため。熟成のピークにあるウイスキーの味はまさに絶品とのこと、今考えても羨ましい限りです。
当初は樽でそのまま貰っていたそうですが、あるパーティーでカスクストレングスにハイプルーフという当時の日本人には強すぎる刺激からアルコール中毒者が出てしまい、それからは市販されているボトルを贈って貰うようになったのだとか。
そうした中、次郎氏が特に愛飲しており、当時の日本に輸入が無かったこともあって会社を立ち上げてまでストラフォード伯爵経由で取り寄せていたのが、マッカラン、グレンファークラス、そしてこのブラックボトルです。
中でもブラックボトルは飲み終わったボトルをカットして、グラス代わりに使っていたほど。以下の写真は次郎氏が愛飲していた当時のウイスキーを写したもので、マッカランとグレンファークラスの間にある、深いグリーンのグラスがそれに当たります。

写真引用:白洲次郎の愛したウイスキー
http://s.webry.info/sp/80-10.at.webry.info/200909/article_21.html

長い前置きになってしまいましたが、今回のボトルは、白洲次郎氏が取り寄せたボトルそのものであることは間違いなく、白洲氏ファンからすれば垂涎の1本と言えます。ただ、中身が特別かというとそういうことではないでしょう。
同時期流通のボトルであれば海外オークションなどで普通に手に入るでしょうし、日本のヤフオクなどでもたまに見かけます。


(ブラックボトル 1980年代流通 特級 。 スコッチハウスにて)

日本への輸入が無かったブラックボトルは、1980年代に愛知県の青和商会が輸入するようになります。
上述で紹介した、ライトテイストだったというのがこのボトルです。
果たしてこのボトルが晩年の次郎氏の元に届いたかは定かではありませんが、自分が出会ったのは岩手盛岡のスコッチハウス。今日はその時のエピソードを紹介して、この記事の結びとします。

スコッチハウスはウイスキー好きなら一度は聞いた事がある名店、スコッチオデッセイの著者でもある関氏がオーナーのBAR、という説明は、このブログの読者の皆様には不要でしょうか
出張で盛岡を訪れた時のこと。当時スコッチオデッセイにも未開栓のまま掲載されていたボトルを、一見さんでどこの誰ともわからない客のオーダーに答えて抜栓してくれたことは、未だに思い出に残っています。
売り物であるバックバーの酒を開ける、何も特別なことじゃありませんが、自分にとってはマスターの心にもまた、"プリンシプル"を見た気がします。